旧東海道を歩く8(多摩川~川崎)
「旧東海道を歩く7(蒲田~多摩川)」からの続きです
多摩川を渡っていくと「六郷橋」の終わりに県境の道標が見えてきました。まもなく神奈川県に入ります
「北野天神」のところで気になっていたオブジェ。橋の左側は神奈川県側にありました。『波をかき分けて進んで行く渡し船』みたいです
橋を渡ってすぐのところにある「明治天皇六郷渡御碑」。文字が良く読めなかったんですが、『対岸まで二十三艘の船を並べて船上に板を敷き渡っていただいた』とのこと。石碑にある絵のような感じだったのではないでしょうか。それにしても壮大です
近くには『長十郎梨のふるさと』と書かれた説明もあります。『長十郎梨』の発祥は神奈川県川崎だったようです
もう1つ『厄除川崎大師』と書かれた灯籠も立っています。関係ないですが、この先の道の下を通っている京急大師線、関東で最初の電車が通った鉄道とのことです(少し先にある「東海道かわさき宿交流館」の説明員の方に教えていただきました)
高架の下をくぐって川崎宿に入ります
入ってすぐのところで目に入る『六郷の渡しと旅籠街』の説明。『旅籠街、なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名でした』と書かれています。『奈良茶飯』って、どんな料理だったんでしょうか、とっても気になります(インターネット検索してみたら、『小豆や粟、栗などをお茶の煎じ汁で炊き込んだご飯』だったようです。ご馳走です)
この説明の向かい側が「万年屋跡」だと思います。それらしき碑も説明も見つけられませんでした
ちょっと歩いた先に見える『東海道川崎宿史跡めぐり』の説明。何カ所にもあり、右上の赤い枠の中がその場所の説明になっています
「本町交差点」の手前(街道 右側)にある『新宿という町』の説明。川崎宿は他の宿場より遅れて作られたと書かれています
この辺りから目に入りますが、高いところに掲げられた『東海道 川崎宿』ののぼり。今までいろいろとあった東海道の示し方、川崎はこんな表示になっています
『新宿という町』の説明の少し手前の道を右側に入ると「川崎稲荷社」があります。昭和26年に再建されたもののようです。家内安全、学業増進の御利益があるそうです。しっかりお詣りさせていただきました
「本町交差点」に戻って来ました。なんかオフィス街のはずれみたいな雰囲気(あくまでも私の感想です)
横断歩道を渡って少し歩くと「田中本陣跡」の案内が見えます(これは今までにない親切さ)。『田中本陣』、川崎宿にある3つの本陣で最も古いとのこと。明治天皇も昼食をとり休息された場所のようです。田中休愚氏は宿場の財政再建をした人で八代将軍 吉宗に認められ幕府に登用されたと書かれています。すごいですね
「助郷会所」の説明は、街道の左側に移動して、「川崎屋東照」(どら焼き屋さん?)の店舗横にあります。(注意して歩いていたんですが、一旦通りすぎてしまいました(汗)。「東海道かわさき宿交流館」まで行ってから、戻って来ました)
助郷制って宿場の伝馬人足不足を解消するための人馬徴用制度だったんですね。これが農村の労働力不足となり窮乏を招いたと書かれています
「東海道かわさき宿交流館」、2Fに川崎宿の説明展示があります。川崎宿模型やいろいろな説明が展示されていて、説明員の方がいろいろと教えてくださいます。2F(だったと思う)に『川崎宿解説まち歩きシート』があるので、ぜひ入手を。現在の川崎の航空写真にみどころが示されているので、かなり便利でした
交流館1Fの休憩・交流スペースには綺麗なタイル画が置かれています。入口からは見えないので、ぜひ立ち寄ってみてください
「東海道かわさき宿交流館」を出て、街道を右側に移動。すぐに「宗三寺」があります。説明にある「供養の石造物」ですが、残念ながら見つけることはできませんでした(ちょっと残念)(7/21追記:なんとか見つけることができました→記事「閑歩:川崎駅近辺をぶらぶら歩き3」)
このような説明もみつけました。最近のものではなく、少し前のものようです。『多摩川の氾濫に備えて、旧東海道筋は周囲より高くなっている』と書かれています。本陣などもあったためでしょうか、いろいろと工夫されていたようです
「中の本陣跡」の説明。田中本陣の説明に比べると寂しい感じがします。江戸後期に廃業してしまったそうです
ちょうど向かい側(セブンイレブンの前)にある「問屋場」の説明。宿場業務を監督する場所だったようです。約30名が昼夜交代で勤務とあるので、かなり繁忙だったようです
「砂子交差点」を渡ってすぐのところにある看板? 存在感があります
看板のすぐ近くにある『東海道と大師道案内図』。大師道にもいろいろと歴史を感じる説明がありそうです。いつか歩いてみたいです
街道右側に移動して、かなり時間をかけて探した「佐藤本陣(上の本陣)跡地」の説明。コンビニ(確かセブンイレブン)の隣のビルの窓ガラスにありました(これはわかりにくい)
説明によると、十四代将軍 家茂が宿泊された場所のようです。上下って、江戸時代だから、きっと京都方向が上なんでしょうね(推測)
横断歩道を渡って街道の左側に移動。川崎信用金庫の前に「佐藤惣之助生誕の碑」があります。「赤城の子守歌」とかの作者とのこと
「小土呂橋交差点」までやってきました。ここにも『旧東海道』を示す存在感のある柱?が立っています
「小土呂橋交差点」を渡って右側に曲がってすぐのところに「小土呂橋の親柱」があります。自転車置き場ですが、ここだけ自転車が停められないようになっているので、すぐにわかると思います
昔をしのぶものとして、橋の親柱は何か感じるものがありますね(だから「六郷橋の親柱」も残されていたんだと思います)
川崎も中心部になりました。記事も長くなってきたので、一旦ここまでとします
次の記事「旧東海道を歩く9(川崎~鶴見)」に続きます!