浦賀散策3(為朝神社~浦賀の渡し)
「浦賀散策2(陸軍桟橋~燈明堂)」からの続きです
ようやく「川間隧道」のところまで戻って来ました
横断歩道の横にあった消防車がデザインされた消火栓のマンホール。朝からずっと見かけていたんですが、なぜか浦賀の消火栓マンホールは車道の真ん中にあって撮影できませんでした。ここも車道の真ん中なんですが、横断中になんとか撮影(バイクが来てちょっと危なかった・・・)
「シティマリーナヴェラシス」の前辺り。ずっと海側だけを見て歩いていたのですが、反対側は木が茂っています(予定ではここで左に入るはずだったんですが、何故か真っ直ぐ道に沿って歩いてしまいました・・・)
でも、おかげで歩道にあった消火栓のマンホールを発見。消防車のデザインがさっきとは違います(やっぱり何かに導かれている?)
コンビニ(ミニストップ)の前で左に曲がり、裏道?に入っていきます
曲がってすぐのところにある「花稲荷」様。小さいながらもしっかり手入れされている印象。ここもお詣りさせていただきました(大きな蜂が2匹飛んでいて、ちょっと怖かった)
「為朝神社」を探していると鳥居が見えてきました
無事「為朝神社」を発見し、お詣りすることができました(朝、駅で貰った『三浦半島 きままに散歩 浦賀駅』によると、『源為朝の像がある』と書かれていましたが、きちんと確認したわけではありませんが、外にはなかったように見えます。きっと御堂の中なのかな?)
近くにあったのは神社の説明ではなく、『虎踊』の説明。『奉行所が伊豆下田から移された時に伝えられ、ここ為朝神社で特設舞台を作って演じられる』そうです。県指定重要無形文化材名は『虎踊』、国選択無形民俗文化財名は『横須賀の虎踊』と2つの名前がかかれているのも面白い(こだわりが出ている感じ)。調べてみたら、今年は6/11の夜に行われたようです
「奉行所跡」を探そうと少し奥に入っていきます。「川間町内会館」のところに説明板があったので、ここかなと思ったら、『川間(地名の由来)』の説明でした。『川間とは川の間という土地ですが、平作川と昔は浦賀湾が川のように見えた』ことからに由来するそうです。昔の人のものの見方が面白いです
もう少し奥に入って、『奉行所跡』の説明を見つけました。『奉行は2人制の時代もあったが約150年間で53人いた』そうです(ということは任期は約3年?)。『与力10騎同心50人が勤めていた』とのこと。説明にある通り、今は何も残っていない感じです(「郷土資料館」に1/60の模型があるので、そちらを是非)。「船番所」が港のそばだったことを考えるとかなり離れた場所にあったようです
気になったので調べてみたら、『与力は馬上も許されていたので、馬と合わせて騎と数えた』そうです、へぇ~(´・∀・`)(「与力-WikiPedia」より)
「為朝神社」のところに戻って、次は「愛宕山公園」を目指します
街灯に『みなと商栄会』の文字が見えたので昔は商店街だったのかもしれません(今はお店もほとんどない感じです)。ここの地名は「蛇畠」、『昔はこの通りから愛宕山のふもとまで、幅が狭くて長い畑があり、蛇のように見えた』ことに由来するそうです(『蛇がたくさん生息していたという意味ではありません』の但し書きがいい)
『愛宕山公園』と書かれた案内の場所に『浦賀園』と書かれた門があります
『明治24年(1891)に開園した横須賀市内で最も古い公園』で、「郷土資料館」でもらったパンフレットによると『中村三郎助氏の招魂碑を建立するために愛宕山公園を造った』そうです(やっぱり地元の超名士)。この説明によると『開園に出席した人達の提唱で浦賀船梁(株)が創設された』とあります。浦賀船梁(株)=浦賀ドックです→ここから始まった(つながってきました)
急な階段を上っていきます
上り始めて、すぐの場所にある「稲荷神社」、名前もわかりませんでしたが、お詣りさせていただきました
緑の中を上がっていく感じ。虫がいるので、今の季節は虫除けスプレーや長袖の方がよいかもしれません
最初に見つかるのは『咸臨丸出港の碑』、『サンフランシスコにある「咸臨丸入港の碑」と向かい合うように建てられている』そうです
「郷土資料館」で入手したパンフレットによると『咸臨丸が太平洋横断できるように艦底やコーキング(水止)などの修理作業を行った場所が浦賀で、これが咸臨丸と浦賀の最初のつながり』と書かれていました
隣にも石碑があるのですが、全く判読できませんでした(何の石碑だったんでしょうか?)
『咸臨丸出港の碑』の前の広場、草がぼうぼうです・・・。かろうじて、誰かが歩いた跡が細く見える程度(あまり人が来ていない印象です)。草を踏んで先へ進んでみます
階段を上っていくと、何か石碑のようなものが見えてきました
これが『中村三郎助招魂碑』でした。上の方の文字がかろうじて読める程度で、下の字がよく読めません。招魂=死者の霊を招いて祭る、ということなので、遠く函館で力尽きた中村三郎助氏の魂を呼び寄せるための碑のようです
篆額(てんがく)とは、『石碑などの上部に篆書体(てんしょたい)で書かれた題字』のことでした。題字を書いたのが『当時の外務大臣 榎本武揚氏』で、もう1つの説明によると『五稜郭で一緒に戦った人』とのこと。23回忌になって建てられたようなので、それまでの時代の流れで、ようやく可能になったことだったように感じます(単なる憶測です)
すぐ近くに『与謝野夫妻の文学碑』もあります。『碑の詩は与謝野夫妻が観音崎、浦賀、久里浜を吟行した折りに詠んだもの』とのことです。「郷土資料館」で入手したパンフレットによると『日帰り旅行の際に詠んだ』とも書かれています
もう一段「愛宕山公園」の広場を上がったところで、作業している方がいたので、『まだ上がありますか?』と尋ねたら、『ここが頂上』とのことだったので、浦賀港の方を向いてみましたが、木が茂っており、全く景色がみえません(超残念)
(ちなみに反対側からは車で来れるようで、作業の方たちはトラックで来ていました。一般車両が入れるかは未確認です)
仕方ないので、来た道を引き返します。先ほど稲荷神社があった辺りの少し上からは写真のような風景が見えるので、頂上から見えれば、もっと眺めがよかったと思います
草の生え方から見て、最近は来訪する方が少ないような印象の「愛宕山公園」でした
「浦賀の渡し」の隣の消防署のところまで帰ってきました。さっきは気がつかなかったけど、シャッターに『燈明堂』が描かれています
今回最も楽しみにしていた「浦賀の渡し」にいよいよ乗船です
就航は朝7時~夕方6時まですが、12時~13時のお昼休みもあるようなので、利用される場合はご注意ください。たまたま対岸に船が到着したところだったので、ボタンを押してみました(呼び鈴?)
すぐにやってきてくれました。どうするのかと思っていたら、係留しません。船首を桟橋に突っ込んで、船首の部分から乗り降りします。ワンマンなので、運転席の前の料金をいれるところ(お皿?)にお金をいれます
船からの眺めを2枚。波も穏やかなので、不快な揺れはありません
対岸までは3分かからないので、あっという間に到着してしまいます(短い船旅、でも面白い&快適)
すぐに待っていた3名のお客さんを乗せて出航! 待ち時間はないようなので、かなり忙しそうでした(つまり時刻表のようなものはありません)
出口のところにあった「タコ」と(たぶん)「マグロ」のタイル。少しかすれてきています
同じく近くにあった『渡船場』の説明によると、『歴史は古く 亨保18年(1733)から確認されている』と書かれています(文献登場なので、実際はもっと昔から)。昭和30年頃の写真掲載がありますが、小さなボートにぎっしり人が乗っていて、かなり怖そうな感じがします
とうとう東浦賀側に到着しました。これから「東叶神社」に向かいます
かなり記事が長くなってしまったので、一旦終わります
次の記事「浦賀散策4(東叶神社~浦賀駅)」に続きます
今回のウォーキングは次で完結。もうしばらくお付き合いください
よろしくお願いします