鎌倉 七里ヶ浜から稲村ヶ崎へ2(鎌倉海浜公園[稲村ガ崎地区]~稲村ヶ崎駅)
「鎌倉 七里ヶ浜から稲村ヶ崎へ1(七里ヶ浜駅~西田幾多朗博士記念歌碑)」からの続きです
さらに国道134号線を歩いて行くと、海沿いに崖のような場所が見えてきました。おそらく、あそこが「鎌倉海浜公園[稲村ガ崎地区]」のようです
あまり橋を渡っている感はないのですが「音無橋」を通過
前方の雲が『ガメラ』っぽいと思って撮ってみましたが、サングラスをかけたオジサンが口を開けているだけのようにも見えます・・・
「稲村ヶ崎駅入口交差点」、あとでここまで戻って来ますが、まずは直進します
こんな案内板も見つけました。『稲村ガ崎 磯づたいのみち』とあります。この「関東ふれあいの道(首都圏自然歩道)コースマップ - 神奈川県ホームページ」、全部で17コースあるようです。ここはコース5でした
「鎌倉海浜公園[稲村ガ崎地区]」の入口までやってきました
公園に入ってすぐ、左側にある『新田義貞の碑』、碑文に『明治天皇御製』と書かれています
ここにもありました『稻村崎』の史跡。「鎌倉八十八箇所」ホームページの説明によると
今から584年前の昔、元弘3年(1333)5月21日、新田義貞がこの岬を廻って、鎌倉に攻め込む事を考えました。黄金造りの刀を海に投じ奉り、潮を退けて貰おうと海神に祈ったと伝えられているのは、この場所であります
と書かれているようです。鎌倉幕府攻撃に向かう際の奇跡の伝承のようです。インターネットでいろいろと検索したところ、『新田義貞の碑』は明治天皇が新田義貞の伝承について詠んだ歌が書かれている碑でした(『明治天皇御製』について納得)
入口からほぼ真っ直ぐに進むと『ボート遭難の碑』があります。ガイドブックによると『明治時代に海難事故で遭難した中学生の慰霊碑』とのこと
階段を上がって、上の広場に行ってみました。一段と眺めがよくなりましたが、江ノ島の向こう側ははっきりと見えません
広場の奥には『ローベルト・コッホ碑』がありました。説明には
この碑は、世界的細菌学者ドイツのローベルト・コッホ博士の来日を記念して、弟子である北里柴三郎博士と鎌倉市関係者により大正元(1912)年9月、建立されたものである。当初、霊仙山頂に建立されたが地盤の脆弱化により、昭和58(1983)年に鎌倉市医師会等によりこの地に移設された。
コッホ博士は、病気と病原菌の関係を客観的に証明する方法を提案し、病原細菌学という新しい分野を開拓した人である。
と書かれています。昔学校で習ったかもしれませんが、忘れています。でもコッホ博士のおかげで、いろんな病気が治癒できるようになったことに感謝します
石碑の碑文の説明はないか探してみたら、やっぱり「鎌倉八十八箇所」ホームページに
碑文の大意(原文は漢文表記で非常に難読です)
明治42年(41年の誤り)7月、ドイツの大医コッホ先生が北里博士と一緒に鎌倉に遊び富士山を望みて大変喜ばれた。霊仙山頂でコッホ先生は日の出と日暮れのすばらしさを見て堪能された。帰国後数年も経たないうちに亡くなられたので、山の所有者である村田氏らと相談し、石碑を建てて事蹟を遺そうと考えた。山の下の稲村ヶ崎は新田義貞中将が武運を祈って刀を沈めたといういわれのある地である。海と富士山のおりなす絶景のこの地を今は海外の偉人がここに留まって風景を賞した所として世に伝えるべきと考える。
と解釈されていました。コッホ博士が気に入ってくださった風景の場所だから、霊仙山(→稲村ヶ崎)に建てられたようです(納得)
そばにあった小さな石碑は昭和58年に鎌倉医師会が移設した時のもののようでした(説明とほぼ同じ内容が書かれていました)
広場から下りてきて、『シン・ゴジラ』のロケ地(上陸地点)は何処なのかと探してみました。なんとなく写真の風景だったような気がするのですが、上陸地点での携帯で写真と撮りながら逃げる人のシーンはもっと緑が多かったような気がします。なんとなく、ここではないような感じがします(疑問の解決は本記事の最後で)
海の近くには石碑が立っています。『かながわの景勝50選 稲村ヶ崎』、そして『関東の富士見百景』とあります
ガイドブックの写真と見比べると、この方角に富士山が見えるようなのですが、やっぱり見えません(このブログを始めてから、『富士山の見える場所』で富士山が見えたことがありません・・・。う~ん日頃の行いが悪いのでしょうか?)
公園を後にして「稲村ヶ崎駅」の方に移動すると駐車場の奥に「稲村ヶ崎温泉」がありました。迷ったんですが、帰るまでにまた汗だくになってしまいそうな気温だったので、今回はパスしました。またいつか稲村ヶ崎の夕日を見にきた時にでも入りたいと思います(春か秋に)
「稲村ヶ崎駅入口交差点」で右に曲がり、まっすぐ進むと『十一人塚』と書かれた史跡が見えてきました
『十一人塚』の碑文は「鎌倉八十八箇所」ホームページによると
元弘3年(1333)5月19日、新田勢が大館又次郎宗氏を大将として極楽寺口に攻め入ろうとした時、鎌倉側の武将である本間山城左衛門が手兵を率いて大館の本陣に切込みました。その為、宗氏主従十一人は戦死しました。その亡骸をココに埋め、十一面観音の像を建ててその英魂を弔いました。それでココを十一人塚というと伝えられています
と書かれており、墓所のようです
史跡のみかと思っていたら、奥にはきちんとしたお墓もありました。こちらの説明によると御堂もここにあったようです
そばにあった丸い石についての説明は『極楽寺付近の造成現場で鎌倉時代末期の武士と見られる多数の人骨を発見』、『その一部は地域の人によって丸い石の下に埋葬されたと伝えられている』そうです(今朝、扇ヶ谷ガード付近で見たものと似ていると思います→記事「閑歩:鎌倉散策その前に、扇ヶ谷ガードへ行ってみました」)
線路を渡って、最後のスポット『日蓮袈裟掛松碑』に到着
配送車が階段のところに停まっていて、近づくことが出来ませんでしたが、車の後ろ側から写真は撮ることができました。ガイドブックによると『刑場に連れて行かれる途中、袈裟が汚れないように掛けた松』があった場所のようです。既に松はありません(不思議ですが、ここには例の史跡は立っていませんでした)
線路の手前を右側に入り、「稲村ヶ崎駅」に向かう途中、電車が来たので、思わずシャッターを押してしまいました(なぜでしょう、電車は撮りたくなってしまいます)
駅に向かう途中で、お稲荷様(正式名称不明)を見つけたので、お詣りさせていただきました(MAP)
線路沿いから駅を見てみると、なにやら工事中のようです
「稲村ヶ崎駅」でゴール! 途中迷って大変でしたが、最後まで歩くことができました
iPhoneヘルスケアアプリによると、10,430歩 7.14kmでした(ガイドブックでは4.2Kmなので、大幅に超過しています。お寺や公園内での移動もありますが、大きく迷ったのが響いています)
日蓮上人関連の史跡を追って、次は「龍口寺」なども訪れてみたいと思います
一日を通して色々な場所で見かけた板状の史跡たち、「鎌倉八十八箇所」ホームページは興味深いので、時折鎌倉に来て史跡を探してみたくなりました(88箇所廻るのはかなり大変そうです)
【おまけ】
閑歩カテゴリで1記事書くほど写真がないので、あともう少しだけ続けさせてください
帰りの電車はかなり新しい車両のようでした。雰囲気が違います
江ノ電鎌倉駅の構内にあるのは『セブンイレブン』(お土産コーナーは別です)、京急だけでなく江ノ電もセブンイレブンなんですね
江ノ電の改札を出ると、こちら側には『津波避難経路』の案内がありました(JRも参加して一緒にやればいいのに・・・。JRで来た人は逃げ遅れちゃうよ)
日中の気温で温まってしまうのが嫌だったので、朝は購入しなかった『レーズンウィッチ』を購入しに「鎌倉小川軒」さんへ
友人宅へのお土産用とは別に、写真撮影用にバラ売りを1つ購入してきました(洋酒のしみこんだレーズンがクッキーとクリームとマッチして美味しかったです。人気のあるお菓子なんだと思います)
宿題は残ってしまいましたが、これで予定は全て完了!
【おまけ(その2):シン・ゴジラ ロケ地は何処だったのか?】
さてウォーキングは無事完了したのですが、『シン・ゴジラ』の上陸地(ロケ地)はどこだったのか、疑問が残っていたので帰宅してから調べました
こちらのブログに答えがありました。この方の考察によると『シン・ゴジラ』は「稲村ヶ崎」の横を通って(上陸していない・・・)、実際に上陸したのは「由比ヶ浜」側の「鎌倉海浜公園」だったようです。確かに本記事が示す風景を映画で見ました
このロケ地は、ランチを食べた「麺屋 波」さんに向かう途中、通った「和田塚入口交差点」から4~5分の距離です(超ニアミス(>_<)、事前調査はやっぱり大事)
またいつか確認に行ってみたいと思います
蛇足もついてしまった、長い記事にお付き合いくださり、ありがとうございました
※御礼
いつも読んでくださり、はてなスターやコメントなど本当にありがとうございます
ものすごく励みになっております。これからもよろしくお願いします