武蔵小金井 野川と湧水めぐり2(貫井トンネル~貫井神社)
「防災の日」で1つ別の記事を鋏んでしまいましたが、
からの続きです
「滄浪泉園」を出て、受付の方に教えていただいた通り、右へ。少し入り組んでいる道を歩いて行きます
手書き地図で『レンガの家』と書かれていた場所は、『レンガ風タイルを貼ってある、比較的新しい家』でした。洋館のような場所を想像していただけに、ちょっと残念
少しクランクしていますが、そのまま真っ直ぐ歩いて行くと、道路下にトンネルのような場所を発見!
道路に上がる階段のそばにあったのは『ハケの道・玉川上水散歩』と書かれた地図。『国分寺駅-小金井公園 5.8Km』と書かれているので、両地点を結ぶ散歩道ではないかと思われます(推測)
小さいですが、トンネル(のような通路)を通って、テンションアップ(笑)
通り抜けた後、まっすぐ「貫井神社」へ・・・、と行く前にマップを確認してみると、「はけうえ遺跡」と書かれた場所が近くにあるようです
少し戻って階段を上がり上の道路に出てみると、そこには「貫井トンネル」と本当のトンネルがありました(笑)
マップの場所を探し、さらに階段でトンネルの上にいってみると、公園のような場所に『はけうえ遺跡』と書かれた説明がありました
武蔵野段丘上にあるこのはけうえ遺跡は、滄浪泉園の湧水地を中心としています。昭和五十二年から都道建設や宅地開発に伴って発掘調査が行われました
関東ローム層中から旧石器時代(約一万二千年~三万年前)の異なった時期の生活面が重層的に発見され、多数の石器や礫群と呼ばれる石焼き調理場の跡が出土しました
また、縄文時代早期前半(約九千年前)の竪穴住居跡が十七カ所発見され、この時期の集落(村)跡としては関東地方でも大規模なものの一つです。
ほかには、縄文時代後期(約四千年前)の張り出し部のある柄鏡形住居が二か所発見されています
と、この附近で『かなり以前から人が住んでいた遺跡が見つかった場所である』と書かれていました。が、附近にはそれらしい跡は残っていません。説明からみても、かなり広いエリアが「はけうえ遺跡」のようです
「貫井トンネル」には歩行者用のトンネルも見えたので、公園を通って、トンネルの反対側へ移動します
やはり車用の大きなトンネルの横に歩行者専用の小さなトンネルがありました。そこを進みます
小さいけれど、これこそトンネル\(^O^)/ (←テンション大幅アップ)
さきほどの『ハケの道・玉川上水散歩』地図があった場所の階段を下りて、もう一度先ほどの道路下のトンネルを抜けます(二度も通れるなんてラッキー)
改めて考えてみるとマップのコースのまま歩いても、結局はこのトンネルの場所に出てこれるようです。いや、トンネル上の「はけうえ遺跡」のところを移動するとトンネルは一切通らないかも・・・。あとは好みの問題かもしれません
寄り道してしまいましたが、「貫井神社」を目指します
道の右側を見ると、かなり坂道が多いです(横浜と同じような地形?)。ここは「さわらび坂」という名前がついていました
寄り道多くて、なかなか着かない「貫井神社」、そろそろ到着のはず
先ほど見えた駐車場の前が「貫井神社」でした。ですが、鳥居の手前で水が湧き出ている場所に置かれていた『貫井プールの碑』が気になります
ところどころ判読が難しいのですが、大まかに最初の方を読むと『大正十二年(一九二三年)、金井村青年会貫井支部は青少年体育向上と精神鍛錬のため、近代的プールの建設を企画、その敷地は貫井神社と真明寺の社寺地を借用、水源は神社裏から出る湧水を利用し長さ五〇米、巾十六米五〇、深さ一米六〇の近隣にもみないプールの計画で、同年三月七日起工、七月中旬完成』となっています
長さ50m×幅16.5m×深さ1.6mの湧水を利用したプールがかつてこの地にあったようです。碑文中に半世紀あり、碑の建立が昭和52年10月10日となっているので、昭和50年頃まで、ずっとプールがあったと推測されます(インターネット検索によると、1977年までと書かれるページが多かったです)。かなり大きいのですが、実際にはどこにあったんでしょうね?
横にはこんな水が出ている場所もありました(飲料可と書かれていないので、手をつけませんでした)
石段を上がってお詣りと考えて、右側を見ると
『境内改修整備記念碑』と書かれた石碑の横に、壊れてしまった石碑を無理矢理外科手術で立たせ、残しているような石碑を発見。字が読めず、何の石碑かはわかりませんでしたが、非常に重要な石碑なのだと感じました
こんな立て札もありました。『神域です ここより禁煙』、喫煙する人がタバコを捨てていくことが多かったのでしょうか? ここまではっきり書かれているのは珍しいです
橋を渡ると、池には水草がたくさん浮かんでいました。豊富な湧水のおかげですね
池のそばには『神域のお池です 魚や亀を放さないで下さい』と書かれた立て札が立っています。きっと魚など飼いきれず放してしまう人が昔は多かったのでしょうね
両方とも『神域』を強調しているのが印象的です
ようやく「貫井神社」の拝殿でお詣りさせていただきました
マップの説明によると『江戸時代には貫井弁財天と呼ばれ、明治時代になって貫井神社と改称された。大岡昇平の「武蔵野夫人」にも登場する』と書かれています
『神社に改称』がわからなかったので少し調べてみたのですが、おそらく『神仏分離令』によるものではないかと思っています(「貫井神社」の説明はなかったのですが、他の神社で同様の説明を読みました。まだまだ勉強しないとわからないことが多いです→少し先でもう少し詳細にわかります)
拝殿の左側奥には『東京の名湧水57選』と書かれた水の湧き出る場所がありました。暑い夏には涼しげです。でも
『飲料水として適しません』との但し書きが・・・。ここの湧き水は飲めないようです(ちょっと残念)
「滄浪泉園」の受付の方が『「貫井神社」の上にあがると富士山の見える場所がある』とおっしゃっていたのを思い出し、境内西側の階段を上ってみました
途中、『石阪供養塔』と書かれた石碑や石仏などが置かれていました
上にはお社らしきものが二つ(よくわからなかったのですが、一応お詣り)
さらに上にあがると『八雲神社』と書かれたお社らしきものがありました。ここも鍵がかけられているので外からお詣り
結局上は林のような場所で、富士山が見えそうな場所を見つけることが結局できませんでした(ちょっと残念)
「貫井神社」をあとにしようとすると入口付近に『石橋供養塔』と書かれた石碑も発見。帰宅後調べてみましたが、上にあった『石阪供養塔』も『石橋供養塔』も何を供養しているのかはわかりませんでした
「貫井神社」を出て、西側に向かうと、上に行く坂道を見つけました。坂道は上りませんでしたが、入口のところに石仏が置かれていました。台の部分には『三猿』が彫られています。『庚申』という文字が見えたので『庚申塔』なのかもしれません
次の「鞍尾根橋」を目指して歩いて行くと、急な階段のそばに建ってる住居を見つけました。土地の有効活用ですが、買い物は少し大変じゃないかなぁと思ってしまいました(坂を利用して住居が並んでいる、本当に横浜みたいで親近感をいだきました)
「滄浪泉園」を出て、まだ距離にして800mほどしかコースを進んでいないのに、30分以上かかっています。本当に2時間で廻れるのかちょっと不安になってきました
記事も少し長くなってきたので、一旦終わります
次の記事
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