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路上観察師による撮影した写真で振り返るウォーキング録です。歩いた気分になってもらえた嬉しいです

旧東海道を歩く25(平塚[江戸見附跡~西口問屋場跡])

からの続きです

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しかしながら、史跡をなんでも載せている印象があり、逆にわかりづらい印象のある地図でした(改めて見ると、この付近に「平塚の里歌碑」があることになっていますが、これも見当たらなかったような・・・)

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すぐ近くに「平塚宿の江戸見附跡」がありました。説明の最後の方だけをピックアップしてみると

(最後のみ)一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。
平塚宿江戸見附は、長さ約三.六メートル、幅約一.五メートル、高さ約一.六メートルの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていました

と書かれています。見附跡の大きさが書かれていたのは今まで初めてのような気がします。思っていた以上に小さい場所だったようです。実際はどんな形で使われていたのか興味が出てきました

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すぐそばにあったのは、さきほどの史跡地図によると『江戸城の井戸枠』(だと思います)。付近に説明がないので、なぜここに置かれているのかはわかりせん(まさかこれが『平塚の里歌碑』ではないと思うのですが・・・。謎が残ったままです)

 

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少し先に進むと、『くすのき』がありました。前には『平塚小学校跡の樟樹』と書かれた説明が立っており、

 平塚小学校では明示二十八年三月、校庭の一隅へ樟の種子を蒔いたところ、六月十五日大地をわって双葉が萌えでいた
(中略)
この地は明治十三年十一月崇善館を移築して平塚小学校と称してから昭和二十年七月の戦争罹災まで日本一を誇った平塚小学校(現在の崇善小学校)の旧地でここに学んだ児童たちはひとしくこの樟樹の傍で遊びたわむれた記憶をもっている。樹令八十余年記念すべき名木と言うべきだろう

と書かれています。現在小学校は「平塚駅」の北側にあるようです。今までもとても大切にされ、切られることなく今も大切にされている木のようです

 

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旧東海道を歩いて行きます。空き始めていたお腹が「すき家」を欲していましたが、先を急ぎます(食事したい場所はまだ先にあります)

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少し歩くと「平塚宿脇本陣跡」があります。立派な石碑が立っています。

(最後のみ)平塚宿の脇本陣は、享和年間(一八〇一~〇三)頃の宿場の様子を描いた「東海道分間延絵図」には、西組問屋場より西に描かれていますが、天保年間(一八三〇~四四)には二十四軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました

と書かれています。本陣や脇本陣って、ずっと同じ場所にあったと思っていたのですが、確かに移設されることが当たり前のような気がします(老朽化や宿場の状況とはいろいろな要因が考えられますね)。なかなか興味深い『平塚宿』の説明

 

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少し先にあったのは「平塚本宿郵便局」。名前もですが、表札が格好いいので、思わず写真に撮ってしまいました

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少し先には「平塚宿高札場跡」。説明の最後には

(最後のみ)平塚宿の高札場は、二十四軒町のこの地にあり、規模は長さ二間半(約五メートル)、横一間(約一.八メートル)、高さ一丈一尺(約三メートル)でした。
 平塚宿には、平塚宿から藤沢宿、あるいは大磯宿までの公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていました

と書かれています。高さ3mとあるので、本当に高いところに掲げられていたのですね。運賃の公定価格があるのは、昔も白タクならぬ白籠とかあったのでしょうか?(表の歴史以外の影にある部分も知りたいですね)

 

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さらに歩くと「平塚宿本陣旧跡」がありました。本陣跡なのに今までと違い、これだけ?と思ったら

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立派な石碑も立っていました^^; こちらの説明によると

(最後のみ)記録によると 徳川十四代将軍家茂は文久三年 元治二年五月の二回ここに休憩している また明治元年十月と同二年三月の両度 明治天皇は東京行幸と遷都に際してここに小休された

とあります。明治天皇小休の跡として残っていないのが気になりますが(普通立派な石碑が立っていることが多い)、東京行幸と遷都の2回、明治天皇旧東海道を移動していたことを初めて知りました(まだまだ勉強不足)

 

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少し先に行くと道が分岐しています。ガイドブックによると注記があり旧東海道は右側

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壁に纏のマークがあり、高い鉄塔の上にたくさんのスピーカーが付いている場所は「平塚市消防団第一分団」の施設でした。シャッターには浮世絵が描かれています(歌川広重による高麗山と花水川の絵、もう少し先でわかりました)

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シャッターの絵に引き寄せられなければ、気がつかず、先まで探して歩いてしまったと思われる「平塚宿西口問屋場跡」はこの消防団施設の角に立っていました

(途中から)平塚宿では初め、ここに問屋場が置かれたが、寛永一二年(一六三五)参勤交代が行われるようになってから、東海道の交通量は激増した。伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出て、慶安四年(一六五一)その目的を達した。
 八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といい、八幡新宿の経営する問屋場を「東組問屋場」といった。
この両問屋場は十日目交代で執務したという

と書かれています。『加宿』を調べて見ると「加宿(カシュク)とは - コトバンク」によると

江戸時代、人家が少なくて人馬を出しにくい宿駅で、地続きの一、二の隣村をこれに加えて一か宿の用を勤めさせたこと。

と書かれていました。いろいろと勉強になります。宿場町の運営は思った以上に大変だったようです

 

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旧東海道消防団施設前の道を直進なのですが、ここで見に行きたいものがあるので、少し寄り道します。右に曲がり、まずは真っ直ぐ歩きます

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真っ直ぐ歩くと「要法寺」に着きます

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門の左にある別の入口からは『子育地蔵尊』が見えます

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境内に入って右側にあるのは『浄行菩薩』様。『この仏様の身体を洗い清めることにより自分の身体の病いや痛みを取り除く事が出来ると、言い伝えられています』と書かれているので、肩とか腰とか脚とか、最後には頭とかを柄杓に汲んだ水で洗わせていいただきました^^

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目的の石碑を探す前にまずは本堂にお詣りさせていただきました

 

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ウォークマップで見ると境内にあるようにみえる「平塚の塚」は「要法寺」の境内には見つからず、同じく「松田たつの墓」も同じく境内にはみあたりません。「要法寺」の裏口(駐車場)のところに来てみると、大きな石が立っているのがみえます(写真中央の尖っている物体)

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ぐるっと廻っていくと公園のような場所に大きな石碑『平塚の塚』が立っています(かなり巨大です)。すぐそばに説明が書かれている石碑があるのですが、今一つ読むことが難しいです。で付近を探してみたら

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説明『平塚の塚由来』がありました

(途中から)「桓武天皇の三代孫、髙見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした折、天安元年(八五七)二月この地で逝去した。柩はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はそれを『ひらつか』と呼んできた」

と書かれており、これが平塚の地名の起こりになったと書かれています

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公園内の道を歩いて出口(こっちが入口だった^^;)には『平塚の塚緑地』と書かれた石柱が立っていました。「要法寺」の境内にはありませんでした

 

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「松田たつの墓」は見つかりそうもなかったので、まずは「春日神社」へお詣り

鳥居の正面に立っても神社の名前が見えず、鳥居を抜けて手水舎の方を向くと『春日神社』の文字が見えます。かなり不思議な感じ

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まずは拝殿にお詣り。境内を見渡すと、他にもたくさんのお社が見えます

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その中の1つ、「春日龍宮社(厳島神社)」。小さな池の中にあり、蛙様の置物が印象的でした(他のお社もお詣りさせていただきましたが、全て紹介するのは今回は省略させていただきます)

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もう1つ、境内には『湘南ひらつか七福神』の1つ『毘沙門尊天』様がいらっしゃいました。御堂は開かれており、中の『毘沙門尊天』様も拝観することができました(ガラスへの映り込みが強いので写真はうまく撮れていませんでした)


「松田たつの墓」を探して付近を歩き回ったのですが、それらしき墓地が見当たりません。あきらめて、先ほど「平塚の塚」が最初に見えた「要法寺」の裏口(駐車場)に戻って来ました。ふと横を見ると、そこに墓地がありました(裏口の真正面)

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『鏡山お初の墓』と題された説明には『加賀見山旧錦絵という歌舞伎で活躍する「鏡山お初」のモデル、本名「たつ」の墓であると伝えられている』と書かれており、さらに

(途中から)主人のみつ女が年寄沢野から侮辱を受け自害したため、ただちに、沢野を訪ねて、主の自殺した小脇差で仇を討ったという烈女で、後に賞せられて年寄となったと伝えられている

と続いています。すごい女性だったようです

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最初お墓だと思っていた、この石碑は『義女松田多津顕彰碑 鏡山お初』の碑で昭和10年に建てられたもののようです

「西組問屋場跡」を見てから、約30分とかなり時間を使ってしまいましたが、ウォークマップに書かれていた史跡を廻ることができました

しかしながら、「平塚駅前交差点」を出てから旧東海道としては1.5Km程度しか歩いていないのに、時刻は既に12時20分過ぎ、とかなり先行き不安な状態です

これからはペースアップして歩きますが、記事も少し長くなってしまったので、一旦終わります

次の記事

に続きます

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