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Bataさんぽ

路上観察師による撮影した写真で振り返るウォーキング録です。歩いた気分になってもらえた嬉しいです

旧東海道を歩く28(大磯[大磯駅入口~宇賀神社])

旧東海道 神奈川

※「旧東海道を歩く」としては、記事「旧東海道を歩く27(大磯[化粧井戸~大磯駅入口])」

 から続いています


旧東海道を歩く」も7日目。前回のセーブポイント(中断地点)、「大磯駅入口」から歩き始めます(いろいろと別の記事を書いていた関係で遅くなってしまいましたが、10/2の散策記録です)

 

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9:30に、ようやく「大磯駅」に到着!

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前回のセーブポイント大磯駅入口」の歩道橋のところまでやってきました。今回の目標は「国府津駅」です。無事たどり着けますように^^

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歩き始めてすぐ、駐車場の前に『此辺大磯宿北組問屋場の史跡』があります。図解で昔の様子が描かれていて、わかりやすい(絵も優しい感じで微笑ましいです)

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さらに歩くと『大磯宿小島本陣旧跡』があります

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家の前には本陣の平面図と絵がついた説明があり、

(途中から)享和三年(1803)大磯宿には小嶋、尾上、石井の三箇所に本陣があり、その建坪は夫々246,238,235坪であった。
(中略)
大名と側近は本陣に泊まるが、その他の者は宿内の旅籠に泊まる。大行列の場合は隣の宿まで使用しなければならなかった。
 尾上本陣は小嶋本陣の西隣に置かれていた。石井本陣は東海道に面した尾上本陣の筋向いの現在の大内館(旅館)の場所にあった。
 これ等の本陣は天保七年(1836)の大磯の大火で焼失した。再建されたが建坪は縮小している。後慶応元年(1865)の書状によれば、ほぼ享和の姿に戻ったとあり、本陣の経営の並々ならぬ努力が偲ばれる

と書かれています。『大行列は隣の宿まで利用』って、かなり大変です。また宿場の火災から完全復旧まで30年近くの時間がかかっているようなので、本当に本陣の経営は大変だったようです(儲かるような事業では決してなかったのですね)

石碑が『小島』で、説明が『小嶋』なのが、少し気になりました

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前回も立ち寄った「中南信用金庫」の前にある『尾上本陣跡』の石碑。なんと『大磯小学校発祥之地』の石碑と兼用です(同じ場所というのもあるのですが、なかなか面白いです)。「尾上本陣」の跡地に小学校ができたということだと思います(推測)

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海岸に行ってみようと思うので、街道の反対側に移動しました

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最近は津波対策なので海抜表示はたくさんありますが、かなり古い『標高一〇米五四六』と書かれた標を発見(わざわざ残してあるように見えます)

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日本橋から68Km』の道標を発見、この交差点で左にはいると

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『大磯照ヶ崎海水浴場』と書かれた石碑?が立っています。旧東海道を離れますが、ここを真っ直ぐ歩いて行きます

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少し歩くと唐突に『原敬大磯別荘跡地』と書かれた説明が立っています。『大磯との関わり』に、いつ何回大磯に来たかがまとめられています(面白い)

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海岸沿いを走る『国道1号線』の高架をくぐり

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歩道橋を使って海岸沿いに移動すると

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『松本先生謝恩碑』と書かれた大きな石碑が立っています。誰?と思ってインターネット検索したら、大磯町ホームページ「松本順謝恩碑/大磯町ホームページ」に

昭和4年8月21日の新聞には「松本翁謝恩碑」の見出しで
明治の中頃名もない一漁村でだった大磯町に別荘を持った故松本順軍医総監が、学術的に如何に同海岸が人間健康に理想的であるかを研究して、以来これを都人士に宣伝して海水浴場という言葉が生れ、遂に現在の天下別荘地「大磯」が成った。同氏のこの恩を永久に記念すべく挙町計画中であったが、謝恩碑は工事費約二千円を以て完成、昨日盛大なる除幕式が挙行された。
と報じられています

と書かれていました。「海水浴場」の生まれるきっかけを作り、「大磯」を別荘地とした方のようです。へぇ~(´・∀・`)

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すぐそばには『海水浴場発祥の地』と書かれた石碑もありました。説明には

軍医総監松本順先生は国民の健康増進と体力の向上をはかるため海水浴が良いと説き、その頃の有名な歌舞伎役者を大勢連れてきて祷龍館に泊まらせ海水浴をさせて大磯町の名を日本中に広めました

とあります。宣伝に歌舞伎役者を使うなんて、なかなかの策士だったようです、松本先生^^ さきほどと同じく大磯町ホームページ「海水浴場発祥の地」

www.town.oiso.kanagawa.jpが面白いので、リンクを貼っておきます

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ここにもありました『大磯八景』の碑。大磯町ホームページ「大磯八景/大磯町ホームページ」によると『いさり火の 照ケ崎までつづく見ゆ いかつり船や 今帰るらん   敬之』と刻まれているようです

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この場所『アオバト集団飛来地』とのことで、たくさんの人が望遠レンズのついたカメラや望遠鏡を持って、海岸を眺めていました

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遠くを飛ぶ『アオバト』を見るのは肉眼では無理でした(またいつか来よう)

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旧東海道に戻ってきました

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すぐに『新島襄終焉の地』と書かれた説明がありました。『新島襄氏は明治時代の先駆的教育者で同志社英学校の設立をされた方』ですが『同志社大学設立を企図して東奔西走中病にかかり、ここ大磯で亡くなった』そうです

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奥に入ってみるとお墓のような石碑が立っていました

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この辺りに『南組問屋場跡』の碑があるはずと探してみたら、公衆電話ボックスの裏側にありました(しかも街道に背を向けて立っています)。これはわかりにくい

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街道の左側を歩いているのですが、『高札場跡』を探すために一瞬右側に移動

一般住居の塀の中に立っていました。木が生い茂って文字が全て見えませんが、『高さ約三米程、巾約五米程で幕府の権威を示すため見上げる様に出来ていた』と書かれています

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街道の左側に戻って、先に進みます

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大きな木の根元に『上方見附』跡がありました。説明によると

(途中から)
 この「上方見附」は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停の付近にあった。
 そこには宿場の出入り口である標示の御料傍示杭が立っていた。
 この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目はなくなり、旅人に宿場の出入口を示す役目をはたすようになった

と書かれています。見附は段々と防御施設の役目はなくなったと書かれているのを初めて見たような気がします

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横断歩道を渡って、街道の右側に移動しています

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松並木が続いています。道のカーブがいい感じです

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しばらく歩くと鳥居が見えてきました

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大きな鳥居の向こうには小さな鳥居が連なっています。年表示を見ると一度に作成されたものではなく、少しずつ造られているようです(年順には並んでいないので、痛んだ鳥居から建て直しているようにみえます)

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「宇賀神社」にお詣りさせていただきました

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お堂は開放されたままで、中を拝見させていただきました。古いお堂ですが、中は大切に使われているようです(ほっこりします^^)

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多分、御由緒が書かれていたと思われる板です。何が書かれていたのか判読することは全くできませんでした

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お堂の前には小さな石像が並べて置かれていました(謎です)

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鳥居をくぐり、街道に戻って、ちょっと歩くと『宇賀神社』と書かれた立派な石碑が立っていました(ちょっと鳥居とは離れています)


まだまだ歩き続けますが、記事も長くなってきたので、一旦終わります

次の記事

に続きます

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