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路上観察師による撮影した写真で振り返るウォーキング録です。歩いた気分になってもらえた嬉しいです

横浜 馬車道散策3(県立歴史博物館~生糸貿易商中居屋重兵衛店跡)

からの続きです(念のため、8/31に行った散策です)

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馬車道」を進んで行きます

 

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通りの反対側には「県立歴史博物館」が見えていますが、まず先にマップにあった「馬車の展示場」を探します

ですが、路上を行ったり来たりしたのですが、なかなか見つかりません

 

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ふと「ホテル ルートイン横浜馬車道」の窓ガラスの向こうを見ると、何かあります。思い切って入って見ると

 

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馬車が展示されていました。大切に屋内に展示されているようです(ちょっとマップだとわかりづらい)

説明によると『開港直後、横浜港にやってきた外国人たちを乗せた馬車を再現した』もので『木製で19世紀調デザインを再現したイギリス製』とのこと。『馬車道まつり』などで来訪者が乗れるそうです(昨年(2015)は10月31日から11月3日に行われたようです。例年同じ日みたいですが、今年(2016)の案内を発見できませんでした)

 

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「ホテル ルートイン横浜馬車道」の少し先には、もう1つの「牛馬飲水槽」が置かれていました(道路側を向いているので、通りの反対側に渡って撮影)

 

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いよいよ「県立歴史博物館」にやってきました。説明には『旧横浜正金銀行本店本館』とあり、

明治大正期に活躍した建築家、妻木頼黄の代表作の一つで、本格的様式建築。正面及び両側隅部には大きなペディメントを設け、壁面は窓ごとに大オーダーの柱形を出してバロック的効果を強調している。関東大震災前の横浜の経済的繁栄を象徴する建物で、国指定の史跡でもある

と書かれています。建築用語が多くて私にはわからないのですが、関東大震災にも耐えた素晴らしい建物というのはわかります

 

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説明板だけでなく、立派な石碑も立っています

 

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こちらの説明には『横浜正金銀行』に関する説明があり、『外国商人が主導していた貿易金融取引を改善するため、明治13年2月28日に設立、その後政府の保護を受けて外国貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長し、大正8年には世界3大為替銀行の一つに数えられるようになった』と書かれています。『建物は明治37に建設、昭和44年3月12日に国の重要文化財に指定』されているとのこと

 

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現在は空調設備の老朽化や屋上防水対策のため、平成30年(2018)4月下旬まで休館中となっています(いろいろと面白そうな展示があったようなのですが、しばらくお預けです)

 

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威厳ある建物で素敵なので、交差点の反対側に渡り、もう1枚写真を撮りました

 

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さあ先を急ごうと、歩き出してしまったのですが、『イギリスからやってきたガス灯たち』の1つ、『シェフィールドパークのガス灯』が「県立歴史博物館」前にあるのを思い出して、戻ってきました^^;

 

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「県立歴史博物館」の向かい側にあるビルも雰囲気が良いので、写真を撮って近づいてみると「旧東京海上火災保険ビル」、説明には

シンプルな外観ながら、壁面を覆うタイルの多様な張り方を主たる意匠とするアール・デコ特有のスタイルを示す。特に壁面頂部の表現は典型的なものである。現在も民間のオフィス・ビルとして使用され、馬車道の歴史的景観を構成する貴重な建物である

と書かれています。へぇ~(´・∀・`) 今も民間利用で現役、活躍中なんですね

 

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「県立歴史博物館」と「旧東京海上火災保険ビル」の間(交差点)には、大きな「馬車」のマークが・・・、徹底してますね(行ったり来たりで歩き疲れたので、逆向きの1枚でごめんなさい。でもこの方が雰囲気ありますよね)

 

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「旧東京海上火災保険ビル」の少し先にある、4つ目の『イギリスからやってきたガス灯たち』は『ビクトリア・タワーのガス灯』。球形のガス灯が3つと多いですが、それぞれ形が違いますね

 

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馬車道」の終わりにも、やっぱりあります、アーチ状のガス灯(^-^)

 

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アーチ状のガス灯の近くにある「東京芸術大学大学院 映像研究科」の建物は「旧富士銀行 横浜支店」、説明には

ルスティカ積みの外壁に、ドリス式オーダーの付柱と半円形窓が組み合わされて配されている。当初は安田銀行横浜支店として建てられた。安田銀行は大正末から昭和初期にかけて、ほぼ同じスタイルで各地に支店を建てているが、これはそのなかでも最大規模かつ、希少な現存例

とまたまた難しい建築用語がありますが、昭和初期の貴重な建築物のようです

 

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馬車道」をはさんで「東京芸術大学大学院 映像研究科」の向かい側には、『馬の像』が置かれています

 

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付近には馬車道や横浜っぽいものがいろいろとありました

 

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そして国道133号線の向こう側「ローソン」さんの前にあるのは、不思議なオブジェ。作品名は見つけられませんでしたが、存在感があります(「東京芸術大学大学院 映像研究科」の角からも見つけられると思います)

 

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交差点をあちこち廻り、いろいろと見て廻った後、「馬車道」を離れ、いくつか史跡を廻っていきたいと思います(写真は「馬の像」を見た後、横断歩道を渡ったところから)

 

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付近に説明もなく、工事中でしたが、このビルは「旧東京三菱銀行 横浜中央支店」のようです。1~2F部分のみで、そこから上は高層ビルになっていました(立地の良さと歴史的建造物の保存という観点から、このような建築が増えているような気もします)

 

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横断歩道に渡って、すぐ右横、「みずほ銀行 横浜支店」前にあるのが『「横浜為替会社」設立の碑』。説明には

明治3年(1870年)の火災で焼失後、この地に明治4年(1871年)に再築された横浜為替会社の建物
(中略)
 明治2年(1869年)、本町三丁目に横浜為替会社が設立された。
 「為替会社」は、「BANK(銀行)」の訳語であり、わが国近代銀行のはじまりとされ、全国に8社(東京、横浜、京都、大阪、神戸、大津、新潟、敦賀)設立された。
 横浜為替会社は、全国の為替会社の中で唯一、洋銀券(ドル紙幣)を発行したほか、金券・銀銭札という紙幣を発行するとともに、生糸売込商等の横浜商人の資金需要に応じた。横浜以外の為替会社7社は、数年で解散に至ったが、横浜為替会社は、開港間もない明治初期の横浜に不可欠な金融機関となっていった。
 このため、横浜為替会社は、国立銀行条例公布に際し、横浜商人からの請願により、明治7年(1874年)、解散することなく、第二国立銀行に組織変更することになる。第二国立銀行は、主に横浜商人の出資により設立された銀行として、引き続き洋銀券を発行するとともに、資金面で横浜の生糸等の産業を支えた。

と書かれています。初めて知りましたが、激動の明治初期で横浜の産業を支えた会社ですね

 

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碑を見た後、そのまま、まっすぐ進み、「弁天通三丁目交差点」で左に曲がります

 

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ファミリーマートの前に『横浜郵便発祥の地』の碑が立っています。説明には

 日本の近代郵便制度は明治4年(1871年)に制定された。
 明治政府は同年5月、ここ関内・弁天通3丁目41番地(当時)に設置した仮役所を、7月15日正式に横浜郵便役所とし、横浜に於ける初の郵便業務を開始した。
 この地では、横浜開港の安政6年(1859年)6月に旅館「鹿島屋」が創業、明治4年には鹿島屋(山室)亀吉が主人として営業していた。山室亀吉は横浜・六角橋出身で、慶応3年(1867年)には横浜-江戸・永代橋間に初の蒸気船旅客航路を開き、江戸の廻船問屋と共に「稲川丸」を就航させ定期運行した。その所有家作を政府が借り上げ郵便役所としたものである。
横浜開港150周年に当たりここに記念碑を刻む

と書かれています。横浜における郵便の歴史はここから始まったのですね(政府が借り上げと単純に書かれていますが、当時はどんな感じだったのかな? 少し気になります)

 

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左に曲がり、次の史跡を目指します

 

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途中、道路に埋め込まれた地図のレリーフを発見! 2つ見つけましたが、どちらもかなり壊れてきていてました

 

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最初の角を曲がって、すぐに『「横浜興信銀行」設立の碑』がありました。説明には

明治38(1905)年にこの地に横浜七十四銀行本店として建築された建物。七十四銀行本店を経て、大正9(1920)年に横浜興信銀行初代本店となる。その3年後、関東大震災で焼失。

 大正9年(1920年)12月、この地に横浜興信銀行が設立された。
 当地には、七十四銀行および横浜貯蓄銀行の本店があった。七十四銀行は明治11年(1878年)に設立された第七十四国立銀行を起源とし、当時の横浜で最大規模の普通銀行であった。しかし、大正9年(1920年)5月、第一次大戦後の恐慌の影響を受け、やむなく休業するに至り、地元経済、特に5万5千口座におよぶ預金者への影響は多大であった。
 この事態に直面した地元財界は、預金者救済のため立ち上がり、政府・日本銀行による特別融資を受け、両行の預金者への預金払い戻しにあたる新銀行として、横浜興信銀行を設立した。
 この時、5万5千口の預金者全員から利息免除、大口預金の支払猶予などについての承諾書を受理し、政府・日本銀行からの特別融資について横浜に本店を置く銀行7行の連帯保証を受けた。設立時の最初の定款(原始定款)には、役員は常勤を除いて「無報酬」、株式は「無配当」である旨が明記されていた。きわめて公共性の高い、特別な使命を負った銀行の設立であった。
 その後、政府の方針もあり、神奈川県内に多数あった銀行の合同が進む。横浜興信銀行は次第に神奈川県内の銀行の合同の中心的役割を果たすようになり、昭和16年(1941年)に神奈川県に本店を置く唯一の普通銀行となる。
 昭和32年(1957年)に横浜興信銀行は横浜銀行に名称変更し、現在に至る

現「横浜銀行」である「横浜興信銀行」設立の歴史。第一次大戦後恐慌から横浜を救った銀行だったとは・・・。いろいろと勉強になりました(それにしても、今まで歩いてきて、第一次大戦の話が出たのは初めてのような気がします)

 

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来た道を戻って、先ほど曲がった角を右に曲がって進むと『生糸貿易商 中居屋重兵衛店跡』があります。説明には

 中居屋重兵衛は、上野国吾妻郡中居村(現在群馬県吾妻郡嬬恋村三原)の出身で、横浜が開港した安政六年(一八五九)に横浜に進出し、黎明期の生糸貿易を担った貿易商です。その取引量は全輸出生糸の過半を超え、幕末の生糸貿易は中居屋によって支えられました。彼の店には全国各地の商人が生糸を持ち込み、多くの外国商人が生糸買付けに訪れたと伝えられます。
 文久二年(一八六二)に刊行された「横浜開港見聞誌」は、中居屋の店の様子について、商談に訪れる外国人の目を楽しませるために、金網を張った中庭に小鳥を放ち、座敷の廻りにはガラス張りの大きな水槽を置き、金魚を泳がせていたと記しています。豪商中居屋の隆盛を伝える記述です。
 中居屋は横浜発展の礎を築いた人物であり、明治時代になると、その事業は多くの生糸貿易商に引き継がれました。そして、横浜は日本最大の貿易都市に成長していきました。現在、中居屋の活躍は遠い過去のものになってしまいましたが、この地が中居屋重兵衛の店があった場所として永く後世に伝えられることを願っています

と書かれていて、生糸貿易で開港時の横浜が発展していったのですね。『金網を張った中庭に小鳥を放ち、座敷の廻りにはガラス張りの大きな水槽を置き、金魚を泳がせていた』、どんな感じだったのでしょうか? できる商人は昔からお客様を楽しませるコツを掴んでいたようです

いくつかの史跡も巡り、横浜の歴史に触れることができましたが、かなり記事も長くなってしまったので、一旦終わります

次の記事

に続きます

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