日本大通り散策3(横浜情報文化センター~関内駅)
からの続きです(念のため、9/14の散策記事です)
「横浜市開港記念会館」を出て、道を戻り、「横浜地方検察庁」の向かい側にある「横浜情報文化センター」前までやってきました
説明は『旧横浜商工奨励館』とあり、
関東大震災後の横浜商工業界の復興を図る目的で、横浜市によって建設された。クラシックなスタイルにアール・デコ的な意匠を加えた横浜の震災復興建築の代表的存在である。高層棟を増築し、横浜情報文化センターとして生まれ変わった
とあり、関東大震災後の復興におけるシンボル的建造物のようです
入口を入ると大理石の立派な階段があります
上った先にあるのは「旧貴賓室」、部屋前にあった説明(写真はありません)によると『昭和4年4月23日、(関東大震災後の)横浜の復興状況をご視察のため、昭和天皇が来浜された際にご休息された』そうです。『横浜市は、この日を「横浜復興記念日」と定め、「旧横浜商工奨励館」は、「開館記念日」と定めた』とも書かれていました
1Fに戻って、奥に進んでみると、巨大な輪転機が置かれています。『1979(昭和54)年から1997(平成9)年まで静岡新聞社で実際に新聞を印刷していた輪転機』だそうです。2階を優に超えています(ばかでかい)
1Fにある「放送ライブラリー」の案内。光ディスクなのでしょうか?
「放送ライブラリー」へはエレベーターを使い8Fで下ります
写真撮影禁止だったため、写真はありませんが、8Fは視聴ホールで過去のテレビ放送を検索して視聴できる(そうです。時間の関係で利用しませんでした)。9Fは展示ブース、ニューススタジオ等体験できる場所がありました(が、見学に来ていた小学生の集団が元気よく利用していたので、触れませんでした^^;)
なかなか面白そうな場所なので、また機会があれば、ゆっくり訪れたいと思います
2Fには「日本新聞博物館(ニュースパーク)」があります。個人的に興味があまりなかったのと時間と財布の関係で立ち寄りませんでした。インターネットで見てみると『マイ新聞作成体験プログラム』などがあるようです
1Fに戻り、玄関を出る前に貰ったパンフレットなどをバッグにしまおうと、玄関横にある電話スペースに入って見ると、置かれていたのは、こんな電話機でした。コインでかける公衆電話(プッシュボタン式)です。使ってみませんでしたが実際に利用できるようです(受話器にマイク部分もあるので、本体のマイクは単なる飾りだと思います)
「横浜情報文化センター」を出て「横浜公園」の方に向かいます
途中、金色の説明があったのは「KN日本大通ビル」、『戦前を代表するオフィスビル、日本で最初の全鉄筋コンクリート造の建造物』と書かれています。『(竣工)明治44年8月』となっているので、関東大震災にも耐えたビルと思われます(修復したとのコメントは特に見当たりませんでした)
「横浜公園」の向かい側にある「旧関東財務局」。この建物も歴史的建造物の1つなのですが、耐震補強等工事中で全く見えませんでした(工期は9月30日までとなっていました。でも『9』だけ紙で貼ってあるので延びているのかもしれません)
ガイドブックでは最後のスポット「横浜公園」の前までやってきました
公園入口を入って、すぐに目に入るのは『ブラントン氏の銅像』、お会いしたかったです(^-^)
明治元年(1868年)政府の招聘により来日した英国人土木技師R・H・ブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました
と書かれています。「横浜公園」もブラントン氏の設計だから、この場所に銅像が建てられているようです
そばにあった一連の説明は『横浜公園の歴史』。『1 彼我公園の誕生』『2 市民が集う公園へ』『3 関東大震災からの復興』『4 接収を乗り越えて』と続いています
ざっくりまとめてしまうと
『1876(明治9)年2月に居留外国人と日本人が双方利用できる公園(「彼我公園」)として開園。関東大震災では多くの市民がここに逃げて助かった』とあります。『公園内の野球場は終戦後は米軍専用として接収されたのですが、1952(昭和27)年に接収が解除され、1978(昭和53)年3月、横浜大洋ホエールズのホームスタジアムとして現在の横浜スタジアムが完成した』とのこと
「横浜公園」の案内図、半分以上が「横浜スタジアム」です。ガイドブックにはありませんが、案内図に書かれているスポットをいくつか廻ってみることにしました
最初は『公園由来碑』、関東大震災まではさきほどの『横浜公園の歴史』と同じようですが、そこから先は仮名遣いが難しくて、私には判読できませんでした(ごめんなさい)
『水琴窟』、残念ながら音は聞こえませんでした
『池』にたくさん水があるのに
近くにある堀のような場所(『流れ』?)には、ほとんど水がありませんでした
『岩亀楼の石灯籠』、説明によると『横浜公園一帯は
安政三年(一八五六年)埋め立てられ太田新田
→横浜開港にともない、更に埋め立てられ港崎町と命名
→慶應二年(一八六六年)の大火(豚屋火事)で焼失
跡地を在留外国人の要望で公園に再生』
となっています(なるほど)
さらに『この灯籠は妙音寺から横浜市に寄贈されたもので「岩亀楼」にちなむもの』とあります。調べて見たら「岩亀楼」は港崎の遊郭のようで、江戸幕府が託した外国人専用の遊女がいたようです(「港崎遊郭 - Wikipedia」より)。ということで横浜公園の歴史とは関係ない遺構です)
「岩亀楼」の遊女達が静養する寮があったのが「岩亀横丁」(横浜西区の歴史として記事「横浜西区 温故知新のみち1(桜木町駅~岩亀横丁)」につながっています。ワォ^^)
「横浜スタジアム」前にある噴水は、なみなみと水が出ていますが
「水の広場」には水がありません(う~ん、こっちは節水なのかな)
「水の広場」にあった瓶に書かれていた説明によると
水の広場は、明治20年(1887年)10月に創設された横浜水道の100周年を記念して、造りました。
トチノキの下にあるこの水瓶は、水源を表わし、水の精が守っています。その水源から、水の流れが渦巻きのようにひろがっていくようすを、石だたみに描いています。
周辺の彫像は、獅子が市庁舎、馬は馬車道、イルカは港、龍は横浜中華街の方角を向き、飲み水が出ます。
広場の地下には、循環式の貯水タンク(容量60立法メートル)があり、災害時に必要な飲料水を確保しています
と書かれています。やはり水を使った施設で貯水タンクになっているものは多いようです。確かに4つの彫像がありました。それぞれ象徴として置かれていたようです
「横浜公園」のトイレです。突きだしている赤い煉瓦調の柱が格好いいです
「横浜スタジアム」の横を抜けて「関内駅」へ。公園の出口には『登録記念物』と書かれていました(初めて見る標記)
「横浜公園」横の道には、横浜スタジアムでの試合が掲示されています
ちょっとだけ公園内に戻って『青春の像』を確認(ずっと横浜スタジアムの方を見ているようです)
線路手前の横断歩道を渡れば、もうすぐ「関内駅」です
横断歩道を渡って、すぐに目に入ったのは『港町魚市場跡』の石碑
横にあった『港町市場を偲ぶ』の冒頭をざっくりまとめると『明治四年に市場開設を許可され、明治七年に港町に市場が移される。明治四十二年横浜食品市場株式会社設立(市場一切を買収)。昭和六年横浜市中央卸売市場開場に伴い業者全部が新市場に入場し、土地千二百七十坪を横浜市に譲渡』とあるので、昭和6年まで、この辺りに「港町市場」があったという碑のようです(碑文の後半は何を言いたいのかがよくわかりませんでした)
『港町魚市場跡』の前にある『JR根岸線』の高架下も撮影してみました。写真下段の隙間から見える道路部分とかなり造りが違います。中央部だけ錆が目立つのも気になります
ゴール「JR関内駅」に到着!
こちら側は横浜ベイスターズのヘルメットが付いていて、球場出入口という感じが強いです
近くには、素敵なデザインの方位がありました
iPhoneヘルスケアアプリによると、7937歩 5.65Km。ガイドブックだと約2.3Kmとなっているので倍歩いていますが、寄り道+各施設内での移動を含めると、そのくらいは歩いていると思います
今回の散策で、また少し横浜の歴史に関する理解が深まったような気がします
最後は本日の目的の1つを貰いに近くにある「関内中央ビル」7Fにある「横浜市役所(環境創造局下水道事業推進課)」へ
無事横浜市のマンホールカードを手に入れることができました(この座標にこのマンホールがあるらしいので、いつか確認行ってみようと思います)
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