Bataさんぽ+

路上観察師による撮影した写真で振り返るウォーキング録です。歩いた気分になってもらえた嬉しいです

「ほの国」奥三河に行ってきました1(設楽原歴史資料館・長篠城址)

東三河いいじゃん!奥三河モニターツアー』の記事第一弾です

時系列的には豊橋までの移動編「序章・奥三河に行ってきます」

からの続きです(ツアーの概略などは前の記事を参照していただけると嬉しいです)

バスに乗り、最初の目的地「設楽原歴史資料館」へ向かいます

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数少ない車上写真から推測すると移動ルートは県道496号線で、ここは『豊川』にかかる「とよばし」(「ばし」と濁る)からの眺め(のはずです)。ものすごい水量で吃驚しました

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進行方向右遠くに見えた「豊橋市役所」、立派な建物です

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そのすぐ近く「吉田城」、址地ではなく、立派なお城が建っているようです(移動する車内から最大望遠なので、これが限界でした^^;) 「豊橋駅」から2Km弱の距離で公園の一角にあるようなので、いつか行ってみたいと思います

 

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少し走ると大きな川を通過。『豊川』とはだいぶ雰囲気が違います

看板で名前を確認すると『豊川放水路』で、厳密には川ではありませんでした。帰宅してから検索したホームページ「豊川放水路完成50周年記念シンポジウム」によると

豊川放水路とは
豊川では、洪水を霞から溢れさせることで中心市街地を水害から守ってきましたが、霞地区の農地開拓が進むことで、その被害も拡大していきました。そこで、豊川流域の洪水被害を根本的に解決する手段として考え出されたのが、下流部にもう一つの川(放水路)を作り、洪水時には二つの川で洪水調節を行うという計画でした。こうして完成したのが、全長6.6kmの豊川放水路です

と書かれていました。自然に立ち向かう人の力の象徴のような場所です

蛇のようにうねっている『豊川』(Googleマップ下)に比較すると、『豊川放水路』(Googleマップ上)は、どこまでも真っ直ぐで力強い。端から端まで景色を眺めながら歩いてみたいスポットです

車内では、これから行く「設楽原歴史資料館」の学芸員 湯浅大司さんのお話が始まりました(このツアーのスペシャル)

詳細メモはしませんでしたが、教科書などでは短くしか書かれていない「長篠・設楽原の戦い」について、各武将の背景や思惑などを交えた解説はとても面白かったです

この戦で織田信長が使った「三段撃ち」ですが、『信長が考案したものではなく、以前別の場所でこの戦法を受けたのを真似ただけ』というお話もありました。敵の戦法を取り込んで、自らを強化してしまう織田信長の底力の強さを感じます

写真も撮り忘れてしまったのですが、湯浅さんの顔写真を検索で見つけました。実際も「湯浅 大司 | 設楽原からのたより」のトップ写真そのままの素敵な方でした(お話はもっと分かりやすかったのですが、こちらのホームページからその一端を感じてもらえると思います)

 

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途中、車窓から見ると鉄塔が並んでいます(こういう景色を見ると、市街地を離れてきた印象があります。落ち着きます)

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「設楽原歴史資料館」の少し手前、『馬防柵』を車窓から見学! 本当にこんなもので騎馬が防げたのか、ちょっと気になります(おそらく少しでも足止めできれば、騎馬を討つことができたのでしょうね)

 

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バスを降りて「設楽原歴史資料館」へ

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道端には『タイムカプセル「あなたに伝えたいメッセージ一九九九」』と書かれたものが立っていました。きっと、この下にタイムカプセルが埋められているのかな

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「設楽原歴史資料館」、複数の家屋が連なっているような不思議なデザインの建物です

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入口前に立っていたのは『岩瀨肥後守忠震公の像』。説明によると『幕末において開国論を主唱し、外国奉行として米・蘭・露・英・佛との安政の修好通商条約締結に盡瘁』した人とのこと(もしかすると開国関連でどこかでお名前を拝見したかもしれませんが、存じ上げませんでした。また一つ勉強になりました)

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入口にはこんな可愛い顔ハメ看板も置かれています(サイズ的に子供用のような気がします)

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入口で渡していただいたリーフレット(無断転載ですが、奥三河PRのためなので許してください)。さきほど見た家屋状の建物が入口付近にあり、奥の展示室はは円弧を切り取った形になっています。面白い形です

 

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受付入ってすぐの場所には甲冑と『設楽原からのメッセージ』があり、「長篠・設楽原の戦い」と「開国」の2つの歴史の転換点に関わった場所だと説明されています

左側には甲冑がディスプレイしてあり、試着できるというような説明がされていたように思いますが、30分という短い時間なのでスルーしてしまいました

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『日本最古 伝説の火縄銃【信玄砲】』です。説明には

(途中から)
 昼間 両軍の白熱の戦いも
 日が沈み 夜ともなると城の周りは静けさに包まれる
 すると城内から聞こえる心に染みいる笛の音
 名人 村松芳休の 奏じる 笛である
 信玄 こよなく この音を愛し 夜な夜な傾聴する

その夜も信玄 笛の音に誘われ
野田城の堀端まで 忍び来て しばしたたずむ
これを見て 鉄砲名人 鳥居三左衛門
鉄砲を据え 狙いを定め 発砲する
信玄に当たるとの声もあり 武田に大きな衝撃あり

と書かれています。この時に使われた鉄砲が『信玄砲』とのこと

バスの中の湯浅さんの説明では『日中の戦闘で疲れた兵の精神安定のため笛を吹いていた』、そして『毎夜信玄が聴きに来ているのを知り、昼間から狙いを定めて待っていたのではないか』とのこと。実際に命中したかは定かでないようです。まさか夜に撃たれるとは思っていなかったと思いますが、夜な夜な笛の音を聴きに来る信玄は粋な人です

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「信玄砲」の上には風林火山の幟も掲げられていました

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ここまで火縄銃が並んでいるのは見たことがありません。圧倒されます

それに火縄銃というとライフルのようなものとしかイメージがなかったのですが、実にたくさんの種類があります

湯浅さんのお話では『長身のものは威力も高く(火薬をたくさん詰められる)狙いも正確なので長距離射撃用、近接戦での威嚇用、大きなものは柵などを破壊するために使われた』そうです。最上段に置かれていたのは『競技用』とのことで、徐々に武道の一つとなっていたために生まれたようです。威力はなくても正確さがある火縄銃だとのことでした

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入口から展示室への通路には『最大級の大鉄砲』が置かれていました。『近年ではカモを狩る狩猟用とも考えられている』と書かれていました(それにしても撃つまでの準備も撃つのも大変そうです)

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手に持てるようになって火縄銃も置かれていました。私もあとで持たせていただきましたが、結構重かったです

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この鉄砲の上にあったのが「長篠・設楽原の戦い」の絵図

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展示室内には模型や

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『三州設楽郡長篠軍記図』も展示されています。『寛永6年(1853)秋に写された布陣図で、寛永6年頃の設楽原の様子が描かれている』と説明にあります。奇しくも黒船来航の年なのも何か不思議なつながりを感じてしまいます

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屋上からの周囲の風景が眺められるようなので行ってみることにしました(1FとRFしか行き先ボタンはありません)

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火縄銃展示コーナーの真上辺り(館内案内図参照)から資料館の裏手を見ています。この木の向こう側が家康の本陣だったらしいのですが、よくわかりません

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屋上全体が布陣を表している模型になっています

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屋上からも「馬防柵」が見えます(近くまでいってみたかったなぁ)

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屋上も湯浅さんが説明してくださっていました

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下の写真のような説明があり、じっくりと見れば場所がわかったのと思うのですが、資料館全体の見学時間があまりにも短い(30分)のでそこまでは確認できませんでした。(企画展も全く見ている時間がなかったので、ここは1時間ぐらい欲しかったというのが正直な感想。ちょっと消化不良)

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出発前に資料館の駐車場前のトイレに入ったのですが、中にツバメの巣があり、ちょっとほっこりしました

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まだまだ見どころがあったと思いますが、「設楽原歴史資料館」はここまで(この付近の石垣には絵のレリーフがはめられていて、じっくり見たかったのですが、走るバスの速度は速く、写真を撮れませんでした)

 

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次にやってきたのは「長篠城址」、上に写真にある建物が「長篠城址史跡保存館」でしたが時間の関係でここも見学できず(超残念)

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ここでも湯浅さんが「長篠城」について説明してくださいました

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こんな形のお城だったようで、東・南・西の三方が川になっていて、地形的には北側のみが弱点だったので、その場所に堀を築いたそうです

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本丸跡。説明の柱が立っています

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全体的に中央部は何もない広場になっています

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端の柵の向こう側は『飯田線』の線路になっています(単線なんですね、飯田線

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周囲を見渡していると石碑と鳥居が見えます

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石碑は『堅木植樹の碑』、説明には

全く長篠の戦いと様相が似ているアラモの戦いに感激して、石碑を贈った志賀重昴の思いを、この長篠の地に分けて移そうと樫を植えて礎を建てた
樫(樫の実)はこの両戦を因縁とした日米両国の親善交流の証としてアラモ側から贈られたものである

と書かれていました。海を隔てて戦いが似ているという縁を大事にした人達がいることにちょっと感動

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気になっていた鳥居の先にお社はなく、『城藪稲荷様移転のお知らせ』がありました。『おとら狐』様を祀っていたとのこと。文化財保存のため、近くの「大通寺」に移されたそうです。まだ神通力が残っているような気がしたので気分だけでもお詣りさせていただきました

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残されている鳥居が少し寂しげ

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バスに戻る途中、横を通った『旧内堀跡』、大きな窪みが残されているのみです

 

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『歴代長篠城主』と書かれた年表を見ると、築城から取り壊しまでの68年間だけのお城だったようです。地形的にも優れた場所のような気がしたのですが、なぜ取り壊されたのかは少し気になります

 

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駐車場横にあった『さかさ桑』、読んでみると『落武者・武田勝頼が突き刺した杖から桑の芽が出たが下方に向かってだけ伸びるので「さかさ桑」と名ずけられた。近年それが枯れたので、土地の人がおしみ新しいのをこの土地に植えた』とあります。ん?! ということはこれは「さかさ桑」ではない?! 少し謎が残ってしまいました

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長篠の戦い史跡めぐりコース」という地図もありました(ゆっくり歩いてみたい)

結局、正味10分強の時間で「長篠城址」を出るためバスへ(ここも時間が短すぎる。「長篠城址史跡保存館」も含めて1時間ぐらいはじっくり廻ってみたかったです)

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バスの車窓から、すぐ近くの店先にあった『心』と書かれた石碑が気になったので、思わず撮影。これもなんだったのか少し気になっています

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ということで名残り惜しいまま、「長篠城址」を出発しました(結局「設楽原歴史資料館」も合わせて、『鳥居強右衛門』の歴史には触れることが出来ませんでした。かなり残念)

ここで「設楽原歴史資料館」&「長篠城址」編は終わりなのですが、宿泊した旅館で見つけた小冊子『長篠の合戦を巡る大人の修学旅行』を紹介!

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いろんな場所にありそうなので、旅行の際、見かけたらゲットしましょう^^

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この冊子の最後にある『長篠の合戦コース』(ウォーキングコース)がとても気になっています。飯田線長篠城駅」から「三河東郷駅」まで約6.2Km、これを少し史跡を追加して拡張すると面白いコースができそうな気がします(無断転載ですが、これもPRなので許してください>関係者各位)

このエリア謎も残ったままだし、実際に見てみたい史跡もたくさんあるので、またいつか、今度は歩きに来てみたいと思います^^

さて、バスはランチのため、次のポイント「鳳来館」に向かいます

次の記事

に続きます


【僭越ながらお願い】
最初の記事に書きましたが、本モニターツアー参加の条件として、ツアー参加後SNSなどで情報発信を行うことが含まれています

「ここが良さそう」とか「ここに行ってみたい」などありましたら、ブックマーク、ブログのコメント欄コメント、Twiterなどでコメントなど頂ける大変嬉しいです

きっとモニターツアー事務局の方も読んでくれて、コメントなどしてくださるのではないかと勝手に期待しています(もしかしたらしてくれないかも、ですが・・・。難しい質問にはお答えできないかもしれないので予めお詫びしておきます)

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