旅行:金沢・高山に行ってきました8(高山散策1)
本日もブログ訪問ありがとうございます!
金沢・高山旅行も「白川郷」を出発して、「飛騨高山」にやってきました
前の記事「旅行:金沢・高山に行ってきました7(白川郷2)」
からの続きです
「白川郷」を出発して、1時間半もかからず、バスは高山市のホテルへ。ここからは明朝の出発まで自由行動時間なので、ホテルの部屋に荷物を置いた後、高山散策に出発
宿泊するホテルは「ひだホテルプラザ」、ここからスタートです(関係ないですが、3つの建物「喜多館」「皆美館」「東館」で構成されてます。北と南はいい語呂合わせなのに、何故か東はそのまま^^;)
ホテルからも近いので、バスガイドさんから紹介もあった「国分寺」へ行ってみることにします。遠くに綺麗に黄葉しているイチョウが見えました。きっとあそこです^^
商店街の通りから少し入ったところに門があります(さっきのイチョウの木が見えます)
境内を廻る前に本堂にお詣り
立派な『三重塔』があります。現在の塔は『に庶民の喜捨浄財金八百両と大工手間五千五百人工かけて文政四年(一八二一)に竣工』、高さ22mだそうです
境内に入った時に既にくぐっている『鐘楼門』、『建築年代は安土桃山時代とされる』と書かれていました。『国分寺の晩鐘は飛洲八景の随一として(漢詩)「国分寺の境内は古びた三重塔がそびえ静かである。暮れゆけば鐘が鳴りわたり、月影が清く美しい」とある』そうです
立派なイチョウの木も撮影(木の根元では何かの撮影をしていました)
門の外にある、願いがかなった「さるぼぼ」を納めるところ
小さなお堂の前にぶさがっていたのは「さるぼぼ」? なぜ、こんな形でぶらさがっているのかな?
その横にある『願掛けなでさるぼぼ』、しっかりなでて願掛けさせていただきました
「国分寺」を出て、東に少し歩くと道路標識の裏側に貼られた『屋台』の絵(標識の横にあるのはよく見かけますが、裏側にあったのは初めてかも^^;)
さらに東に向かい、商店街を歩いていると、店頭に大きな「さるぼぼ」が置かれていました。看板には
さるぼぼとは、猿の赤ん坊という意味です
むかし雪深い飛騨では、おばあちゃんが子供や孫の為に、冬の暇な時にいろり端で、この人形を作ってやる風習がありました
子供達は玩具として、娘達は、お守りとして大切にしたのです
この風習は中部各地にあった様ですが今はほとんどなくなってしまいました
と書かれていました。飛騨の代表的なお土産という印象だったのですが、昔は手製の玩具兼お守りだったようです
横には飛騨のゆるキャラ『ひだっち』の顔ハメ看板(全部は撮影しませんでしたが、高山市内の至るところにいろんな顔ハメ看板がありました)
バスガイドさんから紹介された、次の目的地「鍛冶橋」に到着!
妖怪『手長』と
『足長』が橋の両サイドにいます(これをバスガイドさんから教えてもらいました)
橋を渡ったところには『甦る水100選 宮川をみんなできれいにし水と親しむふれあいの場をつくりました』と書かれた石碑と
『憩い~大黒天~』と題された像が置かれていました(『天』の字の一番上がかすれていて『大黒大』(回文?)に見えました^^;)
橋の上からの眺めです。ゆったりとした、きれいな水が流れていました
橋の西側にある「みたらし団子屋」さん(これもバスガイドさんからの紹介)。1本80円なので2本購入!(甘い餡ではなく醤油味のさっぱりした美味しさ、醤油をつけて焼いたお餅に近いです)。美味しかった^^
次の目的地「高山陣屋」を目指して、商店街を南に歩いていたら発見。恵比寿様のようにも見える猫さんですが、タイトルは『馬頭さま』?(う~ん、謎)
商店街を歩いていたら、「山桜神社」[Google マップ]の石柱が見えたので、お詣りすることにしました
通りから少し入ったところにある鳥居をくぐり、お詣りさせていただきました
ところどころしか読めませんでしたが、『駿馬「山桜」を鎮火の霊として、その馬頭を祀ったのが山桜神社で通称馬頭様として崇められている』と書かれていました(さっきのは猫さんの名前ではなく、山桜神社の千社札だったみたいです)
登録有形文化財『火消し馬頭組 火の見櫓』と碑が立っていたので、周囲を見てみると
神社のお社の上の方にあった、これがそうじゃないかと思います
他にも『馬頭絵馬市の由来』と書かれた説明もありました(さっきの御由緒書きで判読できなかった歴史『昔、高山城主金森頼直公の愛馬「山桜」は明暦江戸の大火(ふりそで大火)の折、主君をのせて江戸城の百間堀をこえ危急を救いました』が書かれています)
通りに戻って歩き続けると、足下には素敵な道案内がありました
出初め式の人形もなぜか通りにありました(これが『馬頭組』?)
洋館みたいなお肉屋さんを発見!
でも屋根のところには『天狗様』がいます(「天狗総本店」というお店でした)
再び道案内を発見、「高山陣屋」はこの方向であっていました
15時にホテルを出発して、寄り道もありましたが約30分後、ようやく「高山陣屋」に到着。『国史跡 高山陣屋跡』と書かれた説明には
元禄五年(一六九二)、徳川幕府は飛騨を幕府直轄領としました。それ以来、明治維新にいたるまでの一七七年間に二十五代の代官(郡代)が江戸から派遣され、幕府直轄領の行政・財政・警察などの政務を行いました。
御役所・代官(郡代)役宅・御蔵等を併せて『高山陣屋』と称します
と書かれています。下にちょっと見えていますが、11月は閉館時間が午後4時半なので、かなり急いでここまで歩いてきました(あと1時間あるので、余裕を持って見れます)
入場料を支払って中へ
施設内のほとんどは写真撮影可でしたが、少し薄暗かったため、失敗している写真も多く、以降うまく撮れている写真のみで記事を作成しています<(_ _)>
『御役所』、郡代・手付の執務する部屋で役所の中枢部です
『御用場』、地役人の勤務する事務室です
『湯呑所』、休憩所だそうです。囲炉裏があって、いい雰囲気です(今も給湯器があるのと同じ考えなのですね)
少し外側も撮影してみました。排水路のようなものがあります
とてもインパクトがあったので撮影したのですが、なんだったかな?、思い出せないです^^;
こちらが『下台所』(女中や使用人の食事処)
で、こちらが『台所』(郡代などの食事をつくるところ)と江戸時代なので完全に分離されています
かなり立派な庭です(冬の準備なのか、庭師さんが忙しそうに作業をしていました。庭師さんがいない風景を撮影するのが大変でした)
『居間』(執務の途中で休憩する部屋)の中央にはこんなものが^^ 粋です
ススキ?がいい感じだったので撮影してみました
『御白州(吟味所)』、いろいろな拷問の道具が置かれています。考えてみると昔の取り調べって冤罪ありまくりだったような気がします
この後廻る『御蔵』は展示スペースになっていて、室内撮影NGでした(展示しているものが多く、もう少し時間があれば、じっくり見たかったのですが、さらっと見て廻りました)
※この後高山を散策していたら、もうちょっときちんと見ておけば良かったと感じたので、もう少し高山の歴史などを勉強してから、改めて見に行きたいと思います(またいつか)
『御蔵』の屋根の部分の造りが特徴的なので撮影しました。細かい板を重ね合わせています
鬼瓦ではなく『鬼板』です。屋根が板葺きなので木製のものになっているとのこと。高山陣屋の正面玄関にあったものだそうです
30分ちょっとの短い時間でしたが、見たかった「高山陣屋」を廻って大満足(旧東海道を歩いていると昔の施設がどんなだったかを知りたくなってしまうのです)
夕暮れまで、もう少し時間があるので、添乗員さんオススメの「古い町並」を見に行きたいと思いますが、記事も少し長くなってしまったので一旦終わります
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