日本大通り散策2(横浜都市発展記念館~横浜市開港記念会館)
からの続きです(念のため、9/14の散策記録です)
ガイドブックに従って、1ブロックの周囲をぐるっと廻ってから「神奈川県庁」を目指します(戻らずに「開港広場」の横を直進します)
「横浜海岸教会」の前にも説明が立っていました
我が国最古のプロテスタント教会につながる由緒ある教会堂。明治8年(1875)鋳造の鐘を今も開港広場に鳴り響かせている。鐘塔の屋根の庇と塔の庇が重畳するなど、個性的な造形がこの建物の魅力
とあります。建物自体は『昭和8年』の建築。確かに独特の形をしている建物です
角の手前にあるのは『電話交換創始之碑』
横濱電話交換局跡
明治廿三年十二月十六日開始
紀元二千六百年記念 逓信省
と刻まれており、相当古いもののようです。近くに説明などを見つけられなかったのですが、横浜市中区ホームページ「26.電話交換創始の地」によると
明治23年(1890年)12月16日、この場所にあった横浜電話交換局において、横浜と東京間及び市内にわが国で初めて電話交換業務が開始されました
とありました。『横浜の加入者は42名』とあるので、かける先もかける人も少ないサービスだったようですが、東京-横浜間ですぐに連絡ができるのは、すごい魅力だったのだと思います
ガイドブックではこの角を曲がるのですが、まっすぐ進むと「旧居留地消防隊地下貯水槽遺構」があるようなので、少し寄り道(直進)します
かなり大きいので「旧居留地消防隊地下貯水槽遺構」はすぐに見つかりました。説明によると『明治4(1871)年から明治32(1899)年までここを本拠地とした居留地消防隊の防火貯水槽として建造されたもの』で『100年以上も良好に保存され、昭和47(1972)年まで使用された』そうです。へぇ~(´・∀・`) つい最近まで現役だったようです。明治4年とあるので『日本大通り』と同じ時期に作られた消防隊です(二度と火災は繰り返さないという強い意志の表れを感じます)
さらに『ここは日本初の消防車(大正3(1914)年)、救急車(昭和8(1933)年)が配置されるなど、日本における近代消防ゆかりの地』でもあるようです
ガラス窓から中をのぞけるのですが、周囲の暗さも手伝って、あまりよく見えませんでした(今でも水が出てきているようです)
振り返ると『消防救急発祥之地』の碑も立っていました
ガイドブックのコースに戻ろうとすると『横浜都市発展記念館 横浜ユーラシア文化館 旧横浜市外電話局』と書かれた説明があります
戦前の逓信省営繕組織の設計による建物の貴重な現存例。当初表現主義の色彩の濃い設計で建設が進められていたが、関東大震災に遭ったため現在の設計になった。外観はタイル張りと一部石張りによるシンプルな造形だが、1階のアーチ窓列やコーニスなどが特徴的である
またまた難しい用語が・・・。『コーニス=建物あるいは壁を完成させる水平な形作られた突起部』だそうです。せっかくなので見ていくことにしました
古い建物を想像していたのですが、外壁のタイルも新しく、綺麗なビルです。外壁工事中なので、定期的にメンテナンスされているようです。コーニス、どの辺が特徴的なのか私にはわかりませんでした
建物の前には、いろいろ展示されています
『卵形下水管』、
『横浜市瓦斯局のガスタンク基礎』、
『国内最古のガス管』、
『神奈川台場の石』と遺構が並んでいます。ガイドブックにも載っていないので、偶然ですが、寄り道して良かったです
「開港広場」の辺りから、ポツポツと雨が降ってきていたのですが、かなり降り始めてしまったので、「横浜都市発展記念館」の中に一旦避難させていただきました
中は「横浜都市発展記念館」と「横浜ユーラシア文化館」2つの博物館が別々にありましたが、展示に興味がなかったので、ここはパスさせていただきました
でも雨宿りの間、ミュージアムショップで見つけたのが、これ!
横浜関内近辺の歴史的建造物がどこにあるか載っているマップです。税込みで160円以下だったので、迷わず購入してしまいました
傘が要らない程度に雨も小降りになってきたので、受付の方に御礼を言ってから、外に出ました
『電話交換創始之碑』のあった角に戻り、ガイドブックのコースに戻りました。「神奈川県庁」を目指して進んで行きます
郵便局のところにあった昔の年賀ハガキの絵柄。みなとみらい地区が水彩で描かれています(いつも白紙を買っているけど、たまにはこんな絵がついているモノで送ってもよいかもしれません)
もう1つ郵便局の前にあったのが、このポスト
投函している方がいたので、現役です。『外国郵便開始八十年記念 昭和三十年一月五日』と横に書かれていたので、それなりに古いモノでした
郵便局前の横断歩道を渡った目の前にあったのは『史跡 神奈川運上所跡』
開港にともない、関税と外交事務を扱う神奈川運上所が、今の神奈川県庁所在地に設けられ、神奈川奉行の支配に属していた。
慶応2年(1866)類焼、翌年新築、横浜役所と称した。
明治元年(1868)明治政府に移管され同5年(1872)横浜税関に改められた
と書かれています。最初は神奈川の出先機関だったのが、のちに横浜役所になるあたりが歴史の流れを感じます(神奈川宿自体で開港していたら、横浜の形は大幅に変わっていたかもしれません)
ずっと見えていた「神奈川県庁」にとうとうやってきました
外観の全体構成はクラシックであるが、細部は幾何学的な独自の意匠が用いられ、後の帝冠様式の先駆けでもある。スクラッチタイル貼りの外壁と中央の高塔が特徴的で、その塔は「キング」の愛称で親しまれている
と書かれています。キングの風格があるというか、とにかく格好いい建物です
正面玄関を中に入ってみると『ここでロケ撮影しました!「HERO」』と書かれています。そう言えば、見覚えがあるような場所です
何を見たらいいのかわからないので、とりあえず1Fを1周してみました^^;
廊下は最近改装したのか、壁が木目調でいい雰囲気でした。写真撮りませんでしたが、トイレのドアは自動ドアと中はそれなりに快適にしているようでした(県庁の皆様、お仕事頑張ってください)
「神奈川県庁」を出た後は『史跡 神奈川運上所跡』の前にある横断歩道を直進し、「横浜地方検察庁」の前へ
「横浜地方検察庁」の前にあるのが『電信創業の地』。『明治2年(1869)12月25日 この場所にあった横浜電信局と東京電信局の間にわが国ではじめて電報の取扱が行われました』と書かれています。鉄道も電話も電報も2カ所をつなぐ発祥は東京-横浜間なんですね
「横浜地方検察庁」の横を「横浜市開港記念会館」の方へ移動します
横にはさきほど「日本大通り駅」から出てきた場所と「神奈川県庁」が見えます。駅舎?もキングを意識したデザインになっているようです
クイーン、キングと廻って、ようやく「横浜市開港記念会館(ジャックの塔)」までやってきました。写真中段の説明には
横浜市開港記念会館は、開港50周年を記念して、大正3年(1914)9月に着工され、大正6年7月1日の開港記念日に「開港記念横浜会館」として開館しました。
建物は、大正12年の関東大震災によって一部が焼失したため、昭和2年と平成元年に復旧工事が行われ創建時の姿に復元されました。
建物の外壁は、腰石まで花崗岩積みで、1・2階は赤い化粧煉瓦と白い花崗岩を積み上げた辰野式フリークラシックスタイルで、古典主義を自由にアレンジしています
と書かれています。下の写真だと『昭和63年』となっているけど、まあいいか^^;
関東大震災で損傷しつつも、なんとか復元された建物のようです。歴史があります
入口を鋏んで、もう1つの史跡『横濱町會所跡』があります
この地に、明治7年(1874)4月に竣工した石造り2階建て屋上に高塔のある建物は、横浜市制施行の明治22年まで横浜の町政を執った町会所でした。「時計台」の愛称で親しまれ、横浜の名所となっていました。明治23年横浜貿易商組合会館と改称し、その後横浜会館と改めましたが、明治39年12月類焼により焼失いたしました。跡地に開港50年を記念して現在の建物が大正6年竣工しました
と書かれています。今の時計塔も昔の時計塔を意識してデザインされたように感じます。それにしても、火事が多い地域です
中に入ってみると、通常の会議などでも使われているようで、入れない場所もいくつかありました
やっぱりメインはステンドグラス
2Fにあるのは、左から『呉越同舟』『鳳凰』『箱根越え』
もう1つ、1Fからの階段にあるのが『ポーハタン号』
1Fの南側の入口には、『横浜市開港記念会館ステンドグラス創生プロジェクト 未来に残したい横浜中区の風景』の1作品『街』が展示されていました(スペースの関係で順番に展示と書かれていました)
他にも付近に『横浜商工会議所発祥の地』や『岡倉天心生誕の地』の記念碑があったようなのですが、知らなかったので、そのまま移動開始してしまいました(また今度確認しようと思います)
横浜三塔も廻り終えて、コースも残り1/3強となりましたが、記事が長くなってしまったので、一旦終わります
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